August 10, 1999

サラウンド評論家 小原氏とのサラウンド談義

By Mick Sawaguchi 沢口真生

 今日は、NHK放送技術局で永年マルチチャンネルの研究や録音、ミキシングに携わりながら、サラウンド・ラジオドラマなどを制作されている沢口真生さんに、小原さんのAVルームにお越しいただき、マルチチャンネルオーディオの現況や、今後の可能性、発展性について、いろいろなソフトを試聴しながらお話を伺いたいと思います。

小原:現在もっとも一般的なマルチチャンネル方式であるドルビーデジタルやDTSの5・1chサラウンドは、まずは映画の音場再生からスタートしました。そこで得た技術やノウハウを、マルチチャンネル音楽再生に、どう適応させていくのかが、今後の課題だと私は思っています。ドルビーデジタル/DTS収録の音楽ソフトは、既に多くの作品がリリースされていますが、率直にいって、凄い臨場感だなぁと感心する良質なソフトと、一聴してすぐに違和感を感じるソフトがある。それは、ミキシングの自然さ、不自然さにあるといっていいでしょう。音楽のミキシングは、モノーラルからステレオへと発展し、今日に至るまで2本のスピーカーがつくりだす音像・音場で完成され、私たちの中にもイメージができあがっています。そこが、映像とリンクした効果音や音楽のミキシングを施す映画と大きく異なる部分だと思っているんですが、沢口さんはどうお考えですか?

沢口:まず最初に私のスタンスを申し上げますと、映画、音楽に限らず、あらゆるソースはマルチチャンネル再生に発展し得るということです。AVはもちろん、ピュアオーディオにおいても、モノーラルやステレオの延長線上にマルチチャンネルを位置づけていきたいと考えています。現状のモノーラルやステレオ再生で満足して止まるのではなく、作る側も、それを聴いて楽しむ側も、より多彩な可能性を目指してマルチチャンネル録音再生に取り組む意欲が大切だと思っています。

小原:そういう点で、いま聴いていただいたダイアナ・クラールやチック・コリア、ボーイズIIメンのDTS-CD、そしてDTS-DVD「モントセラト島救済コンサート」(日本コロムビア)の音声のミックスは、沢口さんはどうお感じになりましたか?

沢口:確かに不自然なミックスの作品もありましたが、それは現状では反面教師として受け取るべきでしょうね。大まかな傾向としては、クラシックのようなアコースティック音楽に向いたサウンドデザインと、ポップス系などの直接音主体の音楽に馴染むサウンドデザインとの2つに別れると思うんですが、各々のスタンダードといえるような収録技術がまだ確立されていないのが実情です。特に音楽の5チャンネルマルチチャンネル録音に取り組み始めたのは、何せ90年代に入ってからのことで、映画のマルチチャンネルの歴史、ましてや音楽のステレオ録音の歴史に較べて圧倒的に底が浅いと言えます。マルチチャンネルのミキシングには、既存の技術の応用だけではなく、全く別種のノウハウも必要なのだというのが私たちの経験からくる実感です。そうした経験の蓄積には、もう少し時間が必要じゃないかと思いますね。

小原:では、沢口さんご自身は、どんな点がマルチチャンネル・ミキシングのキーポイントになるとお考えですか?

沢口:基本的なアプローチとしては、リアchを過剰に意識させないことと、メインchでの音楽の再現性を尊重することが肝要ですね。音楽のマルチチャンネル再生においてもっとも重要なのは、チャンネル間におけるコリレーション(相関性)なんですよ。例えば、コンサートなどのライブをマルチチャンネルで収録するとします。その時、各チャンネルには互いに相関関係を持った情報が含まれています。楽器の反射音や残響音、観客の微かな騒めきや拍手など、レベル的には小さな情報かも知れませんが、そのライブの音場を再現するには欠かせないものばかりです。そうした微細な情報が全チャンネルで正しい相関性を保って美しいエンベロープが形成されれば、その音場再現性は2チャンネル・ステレオを遥かに凌ぐと考えています。正しいコリレーションを安定して得るためには内容や収録条件によってどのようなマイキングが適切なのか?私達は日々研究をしているんです。まずは基礎を固めてから次第にオリジナルな手法へと崩していけばよいわけで……。

小原:崩していく、といいますと?

沢口:例えば、“えっ、こんなのもアリ?”というような、積極的な演出意図を持ったミックスです。しかし、その場合でも基本は踏まえ、大きく逸脱しないというのが前提です。例えば、先ほどのチック・コリアのDTS-CD「リメンバリング・バド・パウエル」は、リスナーがドラムセットの真下に閉じこもって聴いているような音場になっていましたね。これはバンドのユニット全体を捉えた場合明らかに不自然です。ミキシングエンジニアは、映画のカメラマンに通じるところがあって、まずは全体の構図を把握して、音楽をどのように表現したいかというイメージを最初にはっきりさせないといけない。私はそれを「音のサイズ」と読んでいますが・・・そうでないと、得てしてああいう失敗に陥りやすいんです。他に聴いたコーラスに取り囲まれているような音場のボーイズIIメン(「1999dts5・1DEMO CD」に収録)の『イエスタデイ』は先ほど申しあげた「こんなのもアリ?」っていうミキシングの典型といえるでしょう。オーソドックスなアプローチとは対極的な方向の新しい表現手段として、例えばテクノポップやクラブミュージックなどは、チャンネルをどういう形で使ってもよいケースがあり得ると思います。ボーイズIIメンを手掛けたエンジニア兼プロデューサーのボブは、“俺はアメリカのマルチチャンネル録音のクルセイダーズ(改革者)になるんだ”と豪語しているくらいマルチチャンネルに前向きに取り組んでいて、古いオペラのリミックスも行なったりする、なかなか面白い人なんですよ。

小原:ボーイズIIメンの『イエスタデイ』の音場は、ひとつの表現手段として納得できるんですが、チック・コリアは、ちょっと。こういった音づくりの作品が、「音楽はステレオで充分」という意見を補強する有力な物的証拠になりかねない。私はそれを危惧しているんです。

沢口:ダイアナ・クラール(「1999dts5・1DEMO CD」に収録)でも、ギターやピアノの音が全チャンネルに振り分けられた部分がありました。こういったサウンドデザインを良しとするか、楽器の音はソリッドに一方向から聴こえてくるべきで、他チャンネルはアンビエンス再現に徹するべきとするかは、現在多くのエンジニアによって様々なアプローチが試みられている最中です。ですから、その善し悪しや可否を決めるのは、まだ時期尚早ではないかと思います。

小原:ダイアナ・クラールの試聴中、これを録音したアル・シュミットはセンターchをあまり使わないタイプのエンジニアだとおっしゃっていましたね。やはり個々のエンジニアやミキサーの主義主張が、今のところ色濃く出ているように思うんですが……。

沢口:4チャンネルステレオ時代を経験している超ベテランのエンジニアならともかく、現在の若手エンジニアたちにとっては、マルチチャンネル自体が未体験領域なんです。その点では、経験不足の面と、逆に過去に囚われない新しいものが生まれやすいという二面性があるでしょう。例えば4チャンネルステレオ経験があるエンジニアは、センターはファントム音像で再生した方が良いと考えている人が多く、5・1chサラウンドでもその名残が伺えます。先ほどのアル・シュミットやアラン・パーソンズなどがそうだと言えます。彼らにとってセンターchは“エイリアン”のような存在で、その取り扱いは慎重です。逆に若いエンジニアは、フロント3chを積極的に活かしたミキシングを試みる傾向があると言えます。

小原:では、沢口さんご自身のセンターchの捉え方は?

沢口:5・1chという環境では、センターchは積極的に活かすべきだと思います。単純に考えても、キャンバスに使える絵の具が一色増えるわけですから、挑戦し甲斐いのあるファクターだと考えています。

小原:一方で「モントセラト島救済コンサート」のような音楽DVDビデオの音場再現の難しさは、僕が常日頃感じていることでもあるんです。この作品のミックスは、かなり真っ当な部類だと思いますが、例えば画面ではギターが右側にいるのに、音像は左リアchに定位させているような作品が結構あるんですよ。つまり、映像で提示されている情報と、音場で提示されている情報が一致しない。これは音だけのマルチチャンネルよりももっと由々しき問題だと思うんです。

沢口:音楽ライブ映像のミキシングは、映画寄りのアプローチで行なうのが重要だと思います。つまり、情報は映像が主体で、映像を齟齬しない音場を追随させるような手法ですね。基本的には、リスナーがより大きな感動を得られるようにすることが目標ですから、視聴していて何だかムズ痒いような気持ちになるとすれば、それは良いミキシングとはいえません。実際ピュアー音楽のみを仕事としてきたエンジニアには、映像と音楽との相乗効果についてのノウハウがまだ充分に蓄積されていない面があります。その点は、映画のサウンドエンジニアの方が何枚も上手でしょうね。ですから、今後は映画的手法のよいところ、例えばセンターやサブウーファーの効果的な使い方を学び、それを巧みに取り入れながら音楽映像ソフトのミキシングの手法を確立していかねばなりません。

 さて、今日は沢口さんたちが制作された貴重なデジタルマルチチャンネルソースも持ってきて下さいましたので、タスカムのマルチトラックデジタルレコーダーDA98を使って再生しました。キリ・テ・カナワとナタリー・コールのチャリティコンサート、クラシックや現代音楽、そしてラジオドラマなどを聴かせていただきました。

小原:リニアPCMマルチチャンネル音声の情報量の豊かさに圧倒されました。同一素材がないので、ドルビーデジタルやDTSと厳密に比較することはできませんが、やはり非圧縮の凄さというか、音の緻密さを感じますね。ミキシング面でもまったく違和感がありません。ナタリー・コールやキリ・テ・カナワの声がセンターに明瞭に定位し、オーケストラの演奏が前方3チャンネルできっちり再現され、その上でリアチャンネルにアンビエンスが付加されている。あたかも自分がライブ会場で聴いているような臨場感や生々しさこそが、マルチチャンネルの肝だと思っているんですが、まさしく私が思い描くハイフィディリティで自然なサラウンドです。

沢口:ドルビーデジタルやDTSは、情報を通すパイプに制限があるために圧縮せざるを得ませんが、最初にきちんとしたマスターさえ作っておけば、テクノロジーの進歩に応じて後で如何様にでも柔軟に対応できます。

小原:NHKホールで収録されたというキリ・テ・カナワやナタリー・コールのコンサートは、マイクアレンジやミキシングに特殊なことをしているんですか?

沢口:我々の仲間で音楽ミキサーの深田が考案したマルチチャンネル収録用のマイクアレンジで「FUKADA-TREE」と呼んでいますが、これをメインとしスポットマイクで拾った情報とともに48トラックに録音しこれを5chに落としています。このコンサートの模様は、以前ハイビジョンで放送されましたが、同時に収録した映像素材と同期しながらポストプロダクションで音声ミックスを行ないました。次に聴いてもらったクラシックや現代音楽は、純粋な音素材のみの収録で、マイキングを研究していく過程で実験的に収録された素材を5・1chミックスしたものです。収録するステージによってベストな収録方法はそれぞれ異なりますので、状況に応じたベストなマイキングは何か?を研究しています。安定した録音成果を得るためには数多くの実験が必要なんです。

小原:黛敏郎さんの交響曲「涅槃」は、マルチチャンネル再生を意識した作品ということですが沢口さんがおっしゃった『現代音楽の創作性・可能性はマルチチャンネルで拡大する』という意味がよく分かりました。

沢口:2チャンネル・ステレオが絶対ではなくて、マルチチャンネルで自分の世界を表現したいと考えている音楽家もいるはずでそういう意味では音楽家の方が柔軟かもしれません。

小原:いわゆる公共機関であるNHKの中で、マルチチャンネルに対する先進的な研究や録音が積極的に行なわれていることを、私はたいへん心強く感じました。

沢口:現在のマルチチャンネルのベクトルは、ピュアーオーディオのひとつの方式に止まらず、パッケージメディアや放送などをも巻き込んで多様なメディアに発展していく動きだと私たちは捉えています。例えば、イギリスのサリー大学では、マルチチャンネルをアカデミックに研究するコンソーシアムがあります。「MEDUSA」(メデューサ)というプロジェクトなんですが、サリー大学が中心となって、ヨーロッパ全体のスピーカーメーカーや放送機関、EBUなどが参画しています。家庭内でのマルチチャンネル再生に関する研究が主なテーマです。

小原:DVDオーディオでは、マルチチャンネル音声と併せて、2チャンネル再生環境でも最善の状態で聴けるよう、制作側でミックスダウン係数を指定することができるような規格が確立されました。多様な環境においてエンジニアが意図したミックスで再生することが可能になることは楽しみですね。

沢口:われわれにとっても大きなチャンスであり挑戦でもあります。私も所属しているオーディオ・エンジニアリング・ソサエティ(AES)という世界的組織でのセッションでは、マルチチャンネル関連の議題や研究が取り上げられることが非常に多くなってきています。世界規模で注目すべきファクターとしてマルチチャンネルを捉えていることの証ですよ。ディジタルオーディオがそうであったように、まだ赤子のマルチチャンネルオーディオをもう少しじっくりと熟成させる期間が必要なのが現状だと思っています。(了)

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